奥平正武の墓

付近住所 滋賀県彦根市古沢町


奥平源八正武の浄瑠璃坂の仇討ち
 江戸時代の三大仇討ちの一つである「浄瑠璃坂の仇討ち」を成し遂げた十五歳の少年、源八正武が、後に井伊家の家臣となり、この龍潭寺の墓地に葬られている。その理由は次の通りである。
 下野の国宇都宮十五万石城主奥平美作守忠昌(長篠城主、関ヶ原合戦後、岐阜加納の初代城主、奥平信昌の孫)が寛文8年(1668)2月19日に逝去し、奥平家菩提寺である宇都宮の神護山興禅寺に於いて、3月2日に二十七回忌が営まれた時、家老の奥平内蔵允正輝(三十九歳)と、同じく家老の奥平隼人守雄(三十四歳)とが、お位牌の文字の読み方に絡む口論から刀傷事件に発展し、不運にも内蔵允は隼人により手傷を受け、4月22日に喧嘩両成敗を願って憤死した。
 然るに、新主君の大膳亮昌能が本事件の処分を仰いだのに対する江戸幕府老中の裁きは「内蔵允乱心のため倅源八は改易、隼人は不慮の事故に出会い是非無きことゆえ、其の身勝手たるべし」ということであった。これを受けて、昌能は、源八、隼人双方とも追放とした。この昌能の処置は、一見、公平のように見えるが、実は幼時に兄弟の様に育った隼人に対しては、其の身の安全のための策を講じていたのであった。この片手落ちで陰険な処置に、内蔵允側は大いに反発して、この子息の源八正武(十一歳)に父の仇、奥平隼人を討たせようと、奥平伝蔵、夏目外記ら一族ら四十二名が藩を去り、芳賀郡深沢村に隠れ住んだ。隼人を狙うこと四ヶ年、遂に寛文2年(1672)2月3日早朝、江戸浄瑠璃坂で隼人等二十数名を討ち取り、十五歳の源八少年は父の恨みを晴らすことができたのであった。
 仇討ちの後、奥平源八正武、奥平伝蔵、夏目外記の三名は、江戸を騒がせた仇討ち事件の責任者として、時の大老、井伊直澄公に自首して身の処分を仰いだが、この度の行為は「孝心の手本、武士の鑑」と評価され、評議の結果、伊豆大島へ遠島の刑に処せられた。6年後の延宝6年(1678)三名は、天樹院殿(徳川家康の孫娘、豊臣秀頼の妻、千姫)の十三回忌の恩赦を受けた。その後、井伊家に召し抱えられ、彦根に居住することとなった。
 この仇討ちは、三十年後の元禄15年(1702)の赤穂浪士の吉良家への討ち入りの際の参考にされたとして著名である。
 奥平源八一族の墓は、昭和49年9月に奥の墓地から現在地に移された。
 墓の正面奥、中央向かって右側が源八の父、内蔵允正輝の墓、その左の墓が母の墓、右端が源八正武の墓で、左端は彦根2代目貞八(源八正胤)の墓である。
 尚、宇都宮の興禅寺には、内蔵允正輝とその母の見性院殿の昔の古い墓が史蹟として残っている。

           

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